ただの記憶

私は車に乗っている。
父が運転していて、母が助手席に座り、おそらく私は後部座席の真ん中に座っている。
8歳か9歳か10歳くらいで、車内で過す時間にすっかり倦んでいる。
もう時間は午後の三時か四時で、まだ目的地に辿りつかない。
やがて、車は大きな橋にさしかかる。
右手には海が広がっている。
橋の向こうに、段々になった斜面に並ぶ家々が見える。
取り立てて美しくも特徴的でもないこの景色が、
なぜか強烈に、まぶたの裏に焼きついている。
午後の日差しを浴びて、ややまろい色に染まった壁、
長旅の果ての終着点としてふさわしく、迎え入れるように視界を埋めた建物たち。
そこで、その日の映像は終わる。
宿にチェックインしたことは、おぼろげに覚えている。
ホテルではなく、まさしく「宿」という風情の建物だった気がする。
そこにあるのは印象だけで、正確な輪郭はなにも残っていない。
 
次のシーンは翌日で、私は港にいる。
空は晴れている。
母たちはおみやげ屋さんを見ていたかもしれない。
私は友達と一緒にいた気がする。
たくさんの人が散歩していた。
カモメも飛んでいたと思う。
何かを食べた気もする。
 
そして、やはりそこにも正確なものは何も無い。
 
これは夢か、あるいはただつぎはぎされた記憶の断片たちなのかもしれないと、
そう思っていた。
ところが母に尋ねるとあっさりと答えが返ってきた。
コーンウォールじゃないかしら」
 
思い出ならば、そこに感情がこもる。
誰かとした何か、印象深い出来事、嬉しかったこと、楽しかったこと。
けれど、これはおそらく思い出ではない。
私は眼に映ったかけらしか持っていない。
こんなものは、ただの記憶だ。
それでもなぜだろう、私はその地へ行って、確かめたい。
あの日眼に映った景色が、なぜこんなにも私の中に焼き付いているのか。
現地に飛んでも、仮に町並みが変わっていなくとも、
時は流れていて、天気も違っていて、私の眼の高さも違う。
同じ風景にはならないはずだ。
それでも。
 
叶わないからこそ狂おしく焦がれる景色であるのだろう。
今日も目前に迫りくるその風景を振り払いながら、机と向かい合う。

震える粒子

光の中で声をあげる人を見ていた。
音が粒になって、体の表面を打つ。粒になって、体の中をかけめぐる。
酸を浴びているような、血がビールになったような、強い刺激で全身が痺れた。
その圧倒的な幸福感を他に知らない。
空など見えない閉塞された空間で、夜の中で、なぜか雲の上の晴れ渡った青が浮かんだ。
突風にも似た音楽は、あっというまに私を覆っていた皮膜をはがした。
きっと、この刺激には慣れない方が幸福なのだ。

ともすれば

自分のことを4番手くらいの人間だと思っている。
点数で言ったら60点。天気でいったら曇り。
カビが生えるような湿度。
いてもいなくても同じ。積極的に求められることはない。
とかね。
それを思えば思うほど、周囲も本当に私をそう扱ってくる。
でもこれは鶏が先なんだろうか、卵が先なんだろうか。
 
本を読みたい。音楽ばかりを聴いている。
本を読めるようになりたい。向かい合えるように。楽しいと思えるように。
心の琴線が、もう7年くらい錆びついたままだ。
安っぽい言葉と感動しかなくて、何が生み出せよう。

そんなことをトイレで考えて、落ち込んだり泣いたりした。
でも、どんな煩悶の中にあっても、どんなに尊い身分の人でも、
富める人も貧しき人も。
生きているかぎりこうして便器に座って、同じ姿勢をとって、
拭いたり、流したりしているんだと思ったら、
なぜか少しだけほっとして、笑った。

春深き午後

少し香ばしいような、日向のにおいがする春の日は、小学校を思い出す。
風邪を引いて、家で寝ながら小学校のチャイムを遠くに聞いて、
教室の喧騒を思い浮かべるのに似ている。
すすけたグラウンド、濁った青の空、桜の花びらが散る道、上着のなくなったからだ、
ゆるい空気を泳ぐように、ランドセルを背中で鳴らして歩く。
遊んでいた子供達は午後の予鈴を合図に教室に入り、
騒がしかった空間に少しずつ静寂が広がってゆく。
体育のない校庭はひっそりとしていて、やがて教室の中では授業が始める。
ほこりの舞う静けさは、とても有機的だ。
その空気を、春はいだいている。
日向で、誰にも見られず、桜がそよ風に散ってゆく。
木も、植えられた花も、雑草も、ぐんぐん育つ。
子供達は衝動を押さえ込みながらじっと先生の声に耳をこらし、
私はそれらの風景をまぶたの裏に思い浮かべながら、枕に顔をうずめている。

雪崩落ちる

ユキヤナギが満開になると、かくも迫力を伴うものか。
その咲き誇る様は、さながら滝が凍りついたようだった。
ひとつひとつの花を見れば実に可憐で、陽に透ければまるで花嫁のように朗らかであるのに、
集合して渾然となった姿は雄雄しさに満ちている。
カメラ(と言う名の携帯電話)を構えながら、
どのアングルから撮れば、その実態を写し取ることができようかと、試行錯誤を重ねる。
しかし、ちっぽけな携帯のカメラごときには、その生生しさはとても受け止めれない。
せめて一風変わったアングルで、と、せり出す花々の背面に回りこみ、
小花の茂みを裏側から移すことを試みる。
その刹那、むわっとした粉っぽい匂いに包まれる。
小さな花ほど主張する、とは、沈丁花金木犀に習っていたものの、
よもやこの花までもが、と、感嘆にも似た気持ちで呼吸する。
ユキヤナギの陰に隠れて、新たな春の一面を知る。

 
同じ花。

巡り呼ぶ声

沈丁花に、呼ばれた。
姿を探してキョロキョロと辺りを見回すと、
通り過ぎてきたマンションの入り口に、小さな繁みがあった。
近づくと、小さな花はすでに満開だった。地味な佇まいながら、
咲き誇ると小さな鞠さながらの体をしていて、愛らしいといえなくもない。
また、ひっそりと香りを漂わせる姿はいかにも清潔で、奥ゆかしい。
鼻を近づけて嗅いでも、さほど強くは匂わないのに、
道を行くときはまるで行く手を阻むように、香りが回りこんでくるのはどういうわけだろう?
そして、その香りは、必ずといっていいほど、標的であるもの(つまり私)の足を止めるのだ。
そうなっては、一年ぶりの邂逅に目を細めずにはいられない。
今年も会えましたね、と、その静かな貴婦人に心で語りかける。
小さな鞠が、風に、揺れる。