嗅
あっという間に、夏の気配におそわれた。 ほんの少し前はまだ冷たい空気が混じっていたのに、 公園の大きなけやきの下すら、むっと蒸していた。 シロツメクサがところどころに群れて咲いている。 ほんの少し申し訳なく思いながらも、 芝生をふこふこと踏みし…
ほころび始めているのは知っていた。 蕾がわずかにゆるめば、そのすきまからたちまち香りをたちのぼらせるから。 数日前に見た金木犀は、まだ淡い緑色をしていた。 昨日、大規模な台風が通り過ぎ、葉をひきちぎられんばかりになぶられる木々を見た。 その吹…
蕗の葉と茎の境目に、ざくりと刃を入れる。 切り分けられた茎の方はラップにくるんで冷蔵庫へ。今回の主役は葉なので、お休みしていてもらう。 葉は丁寧に汚れを洗い落とし、ボウルに溜めた水に浸け、充分に水を吸って広がるのを待つ。 しゃきっと生き返った…
春一番が強引に冬を押しやった。 風のにおいとぽかぽか陽気に酔っ払ったみたいな気分で町を歩いた。 土も空気もあたたまれば、虫も人も動きたくなるのは同じなのかもしれない。 冷たくちぢこまった四肢をおもいきり伸ばせ。 若者たちも親子連れもフォークシ…
少し香ばしいような、日向のにおいがする春の日は、小学校を思い出す。 風邪を引いて、家で寝ながら小学校のチャイムを遠くに聞いて、 教室の喧騒を思い浮かべるのに似ている。 すすけたグラウンド、濁った青の空、桜の花びらが散る道、上着のなくなったから…
ユキヤナギが満開になると、かくも迫力を伴うものか。 その咲き誇る様は、さながら滝が凍りついたようだった。 ひとつひとつの花を見れば実に可憐で、陽に透ければまるで花嫁のように朗らかであるのに、 集合して渾然となった姿は雄雄しさに満ちている。 カ…
沈丁花に、呼ばれた。 姿を探してキョロキョロと辺りを見回すと、 通り過ぎてきたマンションの入り口に、小さな繁みがあった。 近づくと、小さな花はすでに満開だった。地味な佇まいながら、 咲き誇ると小さな鞠さながらの体をしていて、愛らしいといえなく…
髪を切る。 整えてパーマをかけ直しただけなのに、どうしてこんなにも軽いのだろう。 ほんの数グラムの負荷が減っただけで、重力から少し、解放された気持ちになる。 いつもと違う香りのする髪は、まるでそこだけよそゆきになったようで。 自分のものなのに…
紅葉が青空を背景に、きりりと際立つ。 かさかさに乾いた落ち葉から、秋のにおいがする。 ベンチに腰をかけ本を読む少女の傍らには、熱いコーヒーの入った紙コップが置かれていた。 なんという、平和な秋の景色。 日差しは透明に降り注ぐ。 空気ははりつめ、…
猫が死んだ。 もうだめかもしれないから帰ってきて、という姉の声を受話器越しに聞いた。 どうしてもどうしても帰りたくない理由があったのだけれど、 秤にかけた時、共に過ごした14年間を捨てることはできなかった。 帰らなかった時の後悔も、笑えるくら…
夜明け頃、蒸し暑さに目を覚ますと、喉の奥が焼けるように痛い。 外側からは確認しようのない気管支の形を、思わず脳裏に浮かべるほどに、 あかあかと腫れあがっているのが感じられる。 冷房の空気が部屋にいきわたり、眠るのに最適な温度になったところで、…