思い出の国

あなたたちに会える場所はまだある。まだ残されてはいる。 でもあなたたちはもうあの場所には集っていない。 あの場所はあとかたもなく、なくなってしまった。 あとかたもなく。 私はあなたを覚えている。 あなたのことも、あなたのことも、覚えている。 あ…

青青い時間

あっという間に、夏の気配におそわれた。 ほんの少し前はまだ冷たい空気が混じっていたのに、 公園の大きなけやきの下すら、むっと蒸していた。 シロツメクサがところどころに群れて咲いている。 ほんの少し申し訳なく思いながらも、 芝生をふこふこと踏みし…

逞しく潔く

ほころび始めているのは知っていた。 蕾がわずかにゆるめば、そのすきまからたちまち香りをたちのぼらせるから。 数日前に見た金木犀は、まだ淡い緑色をしていた。 昨日、大規模な台風が通り過ぎ、葉をひきちぎられんばかりになぶられる木々を見た。 その吹…

眠り姫或は

昨日、はてなハイクで知り合った方々にお会いした。 ダイアリーでの告知を受けて、いつものごとく軽い酸欠状態で参加させていただいた。 いい加減に慣れればいいのに、この心臓め。 予報通りの晴天で、汗ばみながらも爽やかな陽気だった。 初夏の気配に、迫…

モノトーン

窓を開けて降る雨の音を聴く。 外は明度が低く、部屋の灯りがやけにこうこうとして見える。 くすんだ色合いの空を眺めていると心が落ち着く。 私の本来の気質や性分に、雨や雲の佇まいがしっくりと馴染むのだ。 このじめじめとした、うっとうしいもの! 雨音…

蕗の葉味噌

蕗の葉と茎の境目に、ざくりと刃を入れる。 切り分けられた茎の方はラップにくるんで冷蔵庫へ。今回の主役は葉なので、お休みしていてもらう。 葉は丁寧に汚れを洗い落とし、ボウルに溜めた水に浸け、充分に水を吸って広がるのを待つ。 しゃきっと生き返った…

命あるもの

ドウダンツツジが新芽の先から蕾をのぞかせていた。 「新芽」と言うのすらためらわれるほど淡く柔らかいさみどりに、おそるおそる触れてみた。 小指の先ほどの蕾は、それでもはっきりとわかるほど肌理細かく、その身の内にひたひたと水分を蓄えていた。 私の…

赤い水筒に

かじかむ指先をぎゅっとコップに押し付けながら、公園のベンチで紅茶を飲んだ。 家で飲む時は何も加えず、あっさりと飲む。 外にはミルクとお砂糖を入れたものを持っていく。 理由は単純で、その方が赤い水筒に似合っているから。 明るく浅はかな赤に、たっ…

宇宙の中心

ほの暗い地下に宇宙が出現した。 三種の楽器と声と無数の機械が、渾然一体となって空気を歪める。 芯から操られた人々の体が、熱に浮かされたように揺れていた。 まばゆい光が空気を貫く。 常ならば目を閉じて音に浸るところを、踊る光があまりにも美しくて…

啓蟄はまだ

春一番が強引に冬を押しやった。 風のにおいとぽかぽか陽気に酔っ払ったみたいな気分で町を歩いた。 土も空気もあたたまれば、虫も人も動きたくなるのは同じなのかもしれない。 冷たくちぢこまった四肢をおもいきり伸ばせ。 若者たちも親子連れもフォークシ…

素朴であれ

また突然食べたくなったので、PRも兼ねて記しておくことにする。 「もすこ」、というお菓子がある。 又の名を「もしこ」という宮崎県は都城の郷土菓子で、説明には落雁と書かれている。 初代DSくらいの大きさの白くて平べったい長方形で、私は棒状に切り…

つづる徒然

私が小さい頃に文字を選んだのは、他に手段がなかったからだ。 ずいぶん早い段階で、私は他の手立てを切り捨てた。 周りに絵が上手な子なんて、五万といた。 私の容姿はテレビに出られるようなものではとてもなく、 歌うことをあきらめた。 文字だけが残った…

ピカピカの

雲のない夜に星がまばらに散っている。 小さなてんてんが一つずつ、きちんと光っている。 月は磨かれたような透明感で、冷たい夜をくまなく照らしている。 温度のない光を顔に受け止めながら、畏れ多い気がして目を閉じる。 胸をしめつけられるような、早朝…

連なる無色

意味をなすうつろな言葉よりも、意味をなさない言葉を選び、それよりも沈黙を好む。 遊ぶのは楽しいけれど、1円玉のように扱われる言葉は少し悲しい。 大切に使おうと思っても、慣れた耳には言葉は適正な重みを伴って届いてくれない。

目で愛でる

今まで魚を観賞する楽しみがわかりませんでしたが、ペットショップでその片鱗に触れました。ベタにカクレクマノミはかわいい。ニモ!ニモ!!と興奮気味に眺めていたら、近くで幼稚園児が同じ反応を示してました。ちっちゃいピンクの鯛(正式な名称は忘れた…

夜を往く燈

God Rest Ye Merry Gentlemen を聴くと、藍色の夜が広がる。 家の中はオーナメントで飾られている。 ツリーの下にはプレゼントが積まれ、 部屋の壁から壁へ渡した紐に、贈られたカードがかけられている。 ピアノの上のアドベントカレンダーは開ききって、 家…

そこに君が

銀幕の中に、昔好きだった人が現れる。 ほんの二、三分の、一方的な再会だ。 顔は毎年変わっていくように見えるけれど、 声はあまり変わらない。 自然なのか不自然なのかわからないしゃべり方も。 その姿を食い入るように見つめてから、 ようやく物語に集中…

舌に幸福を

おいしいものを食べられることじゃなくて、 おいしいと思って食べられることが嬉しい。 めんたい高菜をじゃくじゃく食べる。 納豆、わさび漬け、脂がのって皮がぱりっと焼けたしゃけ。 白いご飯をもしゃもしゃ食べる。 お出汁がじっくり染みこんだ大根といか…

絹糸の揺籃

秋の夜を吹きぬける風はその冷たさとは裏腹に落ち葉のあたたかなにおいがする。 襟元をかきあわせ、心持ち早足で、それでも呼吸を楽しみながら、団地の隙間を歩く。 もう我が家が見える、というところへ来て、眼の前に何やら物体が浮かんでいるのに気付いた…

[ 涙がちょちょ切れるぜバトン ]かっちゃまんさんより、バトンをいただきました。 長いこと気付かずにいてすみません。 では、さらりとゆきます。 1.最近流したのはいつ? またその理由は? 数日前に、心に一ミリの隙間もないほど余裕がなくなって。 2.今ま…

ワンシーン

夜の電車で本を読む。 と、文庫本の端を何かがよぎった。 目線をずらすと、何かの植物の綿毛がふうわふうわと漂っている。 どこから迷い込んだものか、ゆっくりと空気に乗り、隣で眠るサラリーマンの膝に舞い降りた。 サラリーマンはそんなものにはもちろん…

つめたさは

長く人の住んでいなかった家は、とても冷たくしんとしている。 化石のようにじっと沈黙している。 光を入れ、磨き、生活のにおいがする家具が運び込まれ、 寝起きし、食事し、生活がぐるぐる回り始め、 気が付くと、家は光と温度を具えるようになっている。 …

ただの記憶

私は車に乗っている。 父が運転していて、母が助手席に座り、おそらく私は後部座席の真ん中に座っている。 8歳か9歳か10歳くらいで、車内で過す時間にすっかり倦んでいる。 もう時間は午後の三時か四時で、まだ目的地に辿りつかない。 やがて、車は大きな橋…

震える粒子

光の中で声をあげる人を見ていた。 音が粒になって、体の表面を打つ。粒になって、体の中をかけめぐる。 酸を浴びているような、血がビールになったような、強い刺激で全身が痺れた。 その圧倒的な幸福感を他に知らない。 空など見えない閉塞された空間で、…

ともすれば

自分のことを4番手くらいの人間だと思っている。 点数で言ったら60点。天気でいったら曇り。 カビが生えるような湿度。 いてもいなくても同じ。積極的に求められることはない。 とかね。 それを思えば思うほど、周囲も本当に私をそう扱ってくる。 でもこ…

春深き午後

少し香ばしいような、日向のにおいがする春の日は、小学校を思い出す。 風邪を引いて、家で寝ながら小学校のチャイムを遠くに聞いて、 教室の喧騒を思い浮かべるのに似ている。 すすけたグラウンド、濁った青の空、桜の花びらが散る道、上着のなくなったから…

雪崩落ちる

ユキヤナギが満開になると、かくも迫力を伴うものか。 その咲き誇る様は、さながら滝が凍りついたようだった。 ひとつひとつの花を見れば実に可憐で、陽に透ければまるで花嫁のように朗らかであるのに、 集合して渾然となった姿は雄雄しさに満ちている。 カ…

巡り呼ぶ声

沈丁花に、呼ばれた。 姿を探してキョロキョロと辺りを見回すと、 通り過ぎてきたマンションの入り口に、小さな繁みがあった。 近づくと、小さな花はすでに満開だった。地味な佇まいながら、 咲き誇ると小さな鞠さながらの体をしていて、愛らしいといえなく…

指で梳く髪

髪を切る。 整えてパーマをかけ直しただけなのに、どうしてこんなにも軽いのだろう。 ほんの数グラムの負荷が減っただけで、重力から少し、解放された気持ちになる。 いつもと違う香りのする髪は、まるでそこだけよそゆきになったようで。 自分のものなのに…