刻みこむ死

猫が死んだ。
 
もうだめかもしれないから帰ってきて、という姉の声を受話器越しに聞いた。
どうしてもどうしても帰りたくない理由があったのだけれど、
秤にかけた時、共に過ごした14年間を捨てることはできなかった。
帰らなかった時の後悔も、笑えるくらい簡単に想像ができた。
ただ、その場を去る足取りの重さだけはどうしようもなかった。
簡単には諦めはつかない。後ろ髪をぎゅうぎゅうに引かれ、うなだれて、来た道を引き返した。
電車に揺られながら感情は動揺と悲しみと残酷な想像に振れ、ずっと息苦しさを覚えていた。
自分の非情さから目を逸らしたくなり、身勝手さにうんざりしながら、
長い長い時を経て、家に着いた。その後仕事だという姉は、暗い顔をして帰っていった。
静かな部屋で、猫はぐったりと横たわり、目を見開いてぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた。
まだ生きていてくれてよかった、という安堵と同時に、
横になり喘ぐ姿に恐怖に近い感情に襲われた。
1ヶ月あまりの内に急速に病が進行した猫の、
目前に迫った死は、にわかには受け入れがたかった。
まして、前日の夜までは安定していたことを思うと。
猫は動くこともままならず、時折手足をぴくりとさせるくらいで、
あとは苦しそうな呼吸を繰り返すばかりだった。
刺激してしまいそうで、触れることは憚られた。
足を動かすのを見た母が、トイレに行きたいのかもしれないと、
吸水シートを持ってきたので、足元にそっと差し込んだ。
暫くすると猫は突然立ち上がって、おぼつかない足取りで向きを変えたかと思うと、
シートの上に突然、大量の緑色の液体を吐いた。胆汁だった。
およそ哺乳類の体から出てくるなんて信じられない色の液体を呆然と眺めながら、
声にならない恐怖感とは別の場所で、「バジルペーストみたい」と、思った。
ちゃんと、シートの上に吐こうと思ったのかな、とも。
白昼夢でも見ているかのように、いっぺんに色んな感情が交錯した。
猫はばたっと倒れると体を激しく捩り、口を開いて舌を出して、
悲鳴のような声をあげながら、吐き続けた。
身を震わせ、我をなくして暴れ、抑えようとする私の手を半狂乱で振り払った。
ひっかかれておけばよかった、とはあとで思ったことだ。
でも、傷を残すことには、きっと意味はない。
姉は昼間、一人で留守番をしていた。電話口で、胆汁を吐いたと言っていた。
たった一人でこの姿を見たのかと思うと、申し訳なくて涙が出た。
私なら電話口で泣いて早く帰るよう、乞うていただろう。
言葉を選んで、冷静に私を呼び戻してくれたことに、姉の姉としての在り方を見せられた思いがした。
耳をふさぎたくなるような声をあげ、目をそむけたくなるような苦しみを見せ、
ひとしきり身悶えたあと、再びぜえぜえという呼吸が始まった。
何もしてあげられないことはわかっていたものの、そのまま見ていることが忍びず、
背中に手をあてながら、これ以上苦しい思いをしないようにと、ただただ一心に祈る。
一時間半も過ぎた頃だったろうか。兄が着き、まっすぐ部屋に来ると二言三言、猫に声をかけた。
兄にはいつも甘えていた猫。兄の耳には、小さく鳴き声が聞こえたようだった。
しかし兄が部屋を去ると、ほどなくして呼吸が止まった。
とうとうか、と思って母を呼ぶと、カァァッというように、短く息を吸った。
そしてまた止まる。数秒後、吸う。
そんな呼吸に変わり、だんだんと息の止まっている時間が長くなる。
止まる。吸う。止まる。…吸う。
少しでも長く生きてくれ、という思いはとっくに霧散していた。
このいたいけな子が、早く楽になりますように、という願いだけが胸に渦巻く。
やがて再び呼吸が止まり、止まり、止まり………吸う事がなくなった。
目をのぞきこむと、表面にゼリー状のものがはりついていた。
鼓動を確かめることはしなかった。ただ、それで悟った。
獣医の先生と電話をしていた母を再び呼んだが、
「死んだ」という一言がどうしても口に出せなかった。
もう多分…、と言うと、それで母は理解したようだった。
悲しみは、霧のようだった。ぼんやりとして、実体がない。
ただ、部屋に戻ってきた兄が猫に語りかける姿を見ていたら、
自然と鼻水が出てきて、追うように涙がボロボロこぼれてきた。
決して感情的にはなっていないにも関わらず、体が勝手に鼻をツーンとさせ、
涙と鼻水をあとからあとから排出しているようだった。
喉がひきつって声をうわずらせながら、気持ちだけは淡々としゃべっていた。
兄が来るまでは待っていたんだというようなことを、話していた気がする。
母がタオルを持ってきたので、二人で猫の体を拭いた。
病に倒れてから抱き上げることができず、
数ヶ月ぶりに膝に上げた体はだいぶ目方が軽くなっていた。
まだあたたかく、やわらかかった。
胆汁と唾液で濡れた毛は根元まで固まっていて、とうとう完全にきれいにすることはできなかった。
見開いた目を閉じさせようとまぶたを押さえたが、それもうまくいかない。
叫ぶ形に開かれたままの口からは舌がだらりと垂れ下がっていて、
それだけは見るに耐えなかったため、意地で閉じさせた。
無理に力をかけてごめんね、と何度か声をかける。抜け殻となった亡骸に。
 
翌日、姉と私の友人が猫に別れを言いに来る。
二人の訪れを待ちながら、母は買い物へ出かけ、私は夕飯の支度をしていた。
静まりかえった家では、望まざると猫の記憶がふうわふうわと去来し、
まな板に向かいながら涙がにじんだ。
包丁をにぎる手元が見えなくて困った。
どれくらい、沈黙の中にいただろう。インターホンが鳴り、姉がやってきた。
上下黒の姿で、大きな花束を抱えていた。
姉が泣いたら、私も泣いてしまうかもしれない、と思っていたが、
ほどなくして母も帰り、二人で和やかに話しはじめた。
落ち着く間もなく、友人がやって来た。猫の大好物だった鰹節と猫缶を携えていた。
家に音が戻ってきた。
猫を囲んで、皆で思い出話に花を咲かせる。姉の夫も駆けつけてくれた。
5年ほどのつきあいになるのだろうか。
どのような感慨を持って眺めてくれたのかは、わからない。
姉が猫を抱き上げた。姉の腕に抱かれた猫は、穏やかな顔をしていた。
姉は、姉の愛するあらゆる者の中で一番猫を愛していたし、
猫を愛する誰よりも、姉が一番猫を愛していた。
黒い体が、姉の黒い服に溶け込むようだった。

さらに翌日、荼毘に付す。
大好きだった雑草と、姉や伯母の持ってきてくれた花、
鰹節の袋と缶詰、愛用していた爪とぎとひざかけとを、箱いっぱいに敷き詰めた。
花と緑に囲まれた顔に頬ずりするとひんやりと冷たく、体にふさふさにかぶった草のにおいがした。
霊園に運び、火葬場で最後のお別れをする。
魂を失った肉体など、ただの抜け殻だと思っていた。
今まで誰の葬儀においても、肉体の焼かれることに拒否感などなかったものを、
初めて胸がざわめいた。
小さな黒い体を灰の微かに残る台に置き、
鰹節を顔の近くに山と盛り、さらに缶詰の中身をその上に盛った。
生きているうちにもっとたくさん食べさせてあげたかったけれど。と、心の中で呟いた。
少し、泣いた。
体を花で埋め、草で囲み、ひざかけをかぶせ、爪とぎを置いた。
最後にもう一度頬を寄せ、石釜の中へ、体が消えてゆくのを見送った。
ほんの刹那、ものすごい苦しさに襲われた。
その体が燃やされるという事実に。
しかしそれもすぐに凪ぎ、目を伏せ、手を合わせた。
小一時間ほど、焼かれた。
骨の部位の丁寧な説明を受けながら、骨になってもまだなお面影を残す猫に、
ちくりとした痛みと、不思議ないとしみを覚えた。
短いしっぽの骨に笑い、きちんと残った歯や爪の愛らしさに
姉と口をそろえて「かわいい!」と声を上げ、そのどれもの白い美しさに目を細めた。
一つ一つ拾い上げ、小さな骨壷に収める。
来月の頭には、合同慰霊祭が行われるという。
それまでには、悲しみにもケリをつけようと思う。

二房、毛を切り取っておいた。
胸元の、ツキノワグマのような白い毛と黒い毛の境目と、
毛づやのいい背中(病気になってもなお、美しい毛並みをしていた)。
夜、母と二人、包んでいた紙を開いて眺めた。
たった二房の毛は驚くほど鮮やかに、まぎれもないあの子の姿を思い起こさせた。
毛はただの毛で、あの子ではない。
大切なのは魂であって、形ではない。
そう信じているものの、まだ何もかもが生々しすぎて、胸が疼いた。
毛はただの毛だけれど、あの子のれっきとした一部だった。
指先で撫ぜると、あの子の元気な頃の姿が眼裏によみがえった。泣きはしなかった。
 
最期の時間、そばにいられてよかった。
苦しむ姿を見られてよかった。
死を実感としてしっかりと受け止められてよかった。
最後の最後まで、ありがとう。
だいすきだ。また会おう。