ワンシーン

夜の電車で本を読む。
と、文庫本の端を何かがよぎった。
目線をずらすと、何かの植物の綿毛がふうわふうわと漂っている。
どこから迷い込んだものか、ゆっくりと空気に乗り、隣で眠るサラリーマンの膝に舞い降りた。
サラリーマンはそんなものにはもちろん気付かない。
紺色のスーツに、白い綿毛。
ふと顏を上げると、向いに座る女性もじっとその綿毛を見つめている。
夜の電車、乗り合わせた人々はどれも見知らぬ顔ばかりで、どこか遠い目をして、
今この瞬間、電車の中に意識を置いている人は、ほとんどいないように見える。
女性は綿毛を見つめ、私は女性を見ていた。
アナウンスが、私の降りる駅を告げる。
手荷物はいつも膝の上にまとめ、持ち手をぎゅっと握りしめている。
それでも私は忘れ物がないかを確認せずにはいられずに、席を立つとその空白を振り返る。
もちろんそこには何もなく、
それでも私は確かにそこに何かを置き忘れた気がしながら、電車を降りる。
 
駅前のケーキ屋さんのガラスのショーケースの中で、
美しく切り揃えられた小さなケーキたちがキラキラと宝石のように輝いている。
カラフルなゼリーやくだものやクリームで彩られたケーキを眺めて、眺めて、想像して、
そして何も買わずに歩き出す。
その足でスーパーに入り、値引きシールの貼られた惣菜を二つと、味噌を買う。
スーパーを出ると、大学生くらいの男の子の運転する自転車と衝突しそうになる。
男の子は携帯の画面に見入ったまま走ってゆく。
おそらく彼には私の姿などこれっぽっちも映っていない。
私だけが彼を見ていた。
心の中には、色とりどりのケーキがある。
私はきっと、明日もあのショーケースの前で立ち止まり、明日も買わずに帰るだろう。
公園を抜ける時、月が見えた。
何度か振り返り、確認しながら、帰った。
 
家のドアを開けようとして、手に文庫本を持ったままだったことに気付いた。
どうして改札やレジで気付かなかったんだろうか。
つるりとした表紙をなでる。
ドアを開ける。