宇宙の中心

ほの暗い地下に宇宙が出現した。
三種の楽器と声と無数の機械が、渾然一体となって空気を歪める。
芯から操られた人々の体が、熱に浮かされたように揺れていた。
まばゆい光が空気を貫く。
常ならば目を閉じて音に浸るところを、踊る光があまりにも美しくて、まばたきの回数を減らした。
目から耳から焼きついて、骨にまで届いて、痕を残す。
 
地下の宇宙から抜け出すと、地上はあまりにもあっけなく地球だった。
骨に残る宇宙の記憶をぽたぽたとたらしながら、駅へと歩き出す。

啓蟄はまだ

春一番が強引に冬を押しやった。
風のにおいとぽかぽか陽気に酔っ払ったみたいな気分で町を歩いた。
土も空気もあたたまれば、虫も人も動きたくなるのは同じなのかもしれない。
冷たくちぢこまった四肢をおもいきり伸ばせ。
若者たちも親子連れもフォークシンガーも入り乱れる広場で、冷たいコーヒーを飲みながら、かりそめの春を楽しむ。
引っ張られてきた春はまた暫く引っ込んで、行きつ戻りつしながら、来月には本格的にやってくるだろう。
朝の青い空気、ほころぶ桜、まばゆい菜の花、早回しで伸び行く芽、あたたかく甘い風。
まだ先だけれど、もう目前。

素朴であれ

また突然食べたくなったので、PRも兼ねて記しておくことにする。
 
「もすこ」、というお菓子がある。
又の名を「もしこ」という宮崎県は都城の郷土菓子で、説明には落雁と書かれている。
初代DSくらいの大きさの白くて平べったい長方形で、私は棒状に切り分けていただいている。
味は言われてみれば落雁のようだけれど、その食感はまさしく「もすもす」している。
噛めばややしっとりとした(ともすればしけっているとも言えそうな)歯ごたえ、
舌触りは肌理粗くざらりとしていて、「もすもす」と咀嚼しているうちに溶けていく。
米粉とお砂糖のシンプルな味と香りが、幼い頃の私をとりこにした。
いつ最後に食べたのかも覚えていないくらいだったのに、大人になった私に、その記憶はある日突然よみがえってきた。
その途端、どうしても食べたくてたまらなくなった。
母に詳細にわたり説明をしてみたら、親戚が送ってくれたものだったと判明した。
すぐさまお願いをして、一つ取り寄せた。
思い出と変わらぬ姿でそれはやってきた。
変わるべくもない。ただの白い、平べったい四角なのだ。
一口かじれば、懐かしい「もすもす」と、米粉の香りが口の中に広がった。
幼い私に刻まれた味の記憶は、なんといじましくも鮮やかだったことだろう。
思い出を美化しすぎていて、失望するのではないか、という思いは杞憂に終わった。
 
それからも一年に一回程度、「もすこ欲」に襲われることがある。
九州に住んでいた親戚は東京へ越してきてしまったけれど、帰省するたびに買ってきてくれるので、
今のところ「もすこ欲」は抑えられている。
しかし、念のためにとチェックしていた「お取り寄せできる店リスト」の一つからは、その姿を消してしまった。
この地味極まりないお菓子が時の流れに埋もれてしまわないように祈っている。
 
そして今、書き出しよりもなお強まった「もすこ欲」をどうなだめるべきか、思案に暮れている。

つづる徒然

私が小さい頃に文字を選んだのは、他に手段がなかったからだ。
ずいぶん早い段階で、私は他の手立てを切り捨てた。
周りに絵が上手な子なんて、五万といた。
私の容姿はテレビに出られるようなものではとてもなく、
歌うことをあきらめた。
文字だけが残った。
表現できれば、たぶん何でもよかったのだ。
そして他の何もできなかった私に、文字だけが残ってくれた。
 
今はあの頃と違って、文章を書く人が増えている。
それこそ文章の上手い人なんて、十万と、百万といる。
けれど私はもうずっと、文字というものとなじんでしまっている。
今更他の手段で戦おうなんて思えない。
書いても書いてもぎこちないばかりの文章に、
焦燥感や自己嫌悪で真っ黒になりそうになりながらも、
一年に一回くらい、自分で納得のいく一文が紡ぎ出せることがあって、
それだけで私は、あの時文字の道を選んでよかったと、心から笑うことができる。

ピカピカの

雲のない夜に星がまばらに散っている。
小さなてんてんが一つずつ、きちんと光っている。
月は磨かれたような透明感で、冷たい夜をくまなく照らしている。
温度のない光を顔に受け止めながら、畏れ多い気がして目を閉じる。
胸をしめつけられるような、早朝のきりりとした青空も、
あるべき色をあるべきままに映す曇り空も、
ほどよい温度で歩く澄んだ藤色の黄昏時も、
嵐が過ぎて、雲が速い夏の夕方も、
そして枯れ木と星と月だけが存在を主張する冬の夜も、
どれも等しく好きなはずなのに、
現金なもので、「その時見ている空」が、何より好きだと思う。
風がなく、ただぴんとはりつめる冷気に頬を包まれて、
目を開いたその先に、皓々と輝く月を見つけると、
その瞬間は確かに、ほかの何もいらないと、思ってしまうのだ。

連なる無色

意味をなすうつろな言葉よりも、意味をなさない言葉を選び、それよりも沈黙を好む。
遊ぶのは楽しいけれど、1円玉のように扱われる言葉は少し悲しい。
大切に使おうと思っても、慣れた耳には言葉は適正な重みを伴って届いてくれない。

目で愛でる

今まで魚を観賞する楽しみがわかりませんでしたが、

ペットショップでその片鱗に触れました。

ベタにカクレクマノミはかわいい。

ニモ!ニモ!!と興奮気味に眺めていたら、

近くで幼稚園児が同じ反応を示してました。

ちっちゃいピンクの鯛(正式な名称は忘れた)は目が緑色できれいだった。

小さい魚がいっちょまえにビシッと鱗をまとっていると、なぜか感心してしまう。

ヤドカリは砂を一心不乱にかき乱していた。

砂に付着したプランクトンでも食べてるんでしょうか。

今かぶっている貝より小さい貝に引っ越そうとして失敗している子や、

おもむろに立ち上がって、想像以上に細長い体を披露してくれた子もいました。

いつまで眺めていても飽きないもんですね。生き物は奥が深い。

 

そして、何よりも私の心を捕らえたのは。

キャットフィッシュという英名もかわいらしい、ナマズ

なんでしょう、あの愛らしさ!ぽかんと開いた口、漂うヒゲ。

ある水槽では角っこでなぜか3匹折り重なって寝てました(多分。微動だにしなかった)

ハムスターか!とつっこみたくなるような重なりぶりで。

またある水槽では、2匹がくっついてユラユラゆれてました。ずっと。

あのほどよい脱力感。たまらん。

観賞魚を飼う人が暗いといわれるゆえんもなんとなくわかりました。

ずっと眺めていられるけど、黙って魚を見続けてる様を傍から眺めたら、

それは確かにとてつもなく暗いだろう。

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別名義ブログで下書きフォルダに入れっぱなしになってたもの。

日記じゃないけど、当時の興奮が思い出せたので、五感の記録として残しておこうと。